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ところで、鎌倉軍はなぜやすやすと新田軍に稲村ケ崎の海岸を破られたのであろうか。
それは幕府が三浦氏を徹底的に壊滅し、みずからの手でみずからの水軍をなくしたからではあるまいか。
源頼朝と三浦氏との出会いについて、『街道を行く、四十二・三浦半島記』(司馬遼太郎、朝日新聞社、1996)では次のように記述している。
「房総半島、三浦半島、そして頼朝が流人の二十年を過ごした伊豆半島……この三つの半島が、頼朝のころ、たがいに海上交通で結ばれていて、ときに政治的には一つのように連動したに相違ない。どの半島の浦々にも水軍が発達し、平素は漁労をしたり物を運んだりしているが、いざというときには兵員を運ぶ……。
……治承四年(1180)八月の挙兵のとき、三浦半島の小勢力である三浦氏が参陣すべく兵を出したが、おりからの大雨と河川の氾濫で、思うような行動ができなかった。
頼朝は、いまの小田原市域の石橋山で平家の大軍に敗れた。生涯に二度目の落人として、のがれて海上に浮かんだ。やがて、房総半島をめざした。途中、三浦半島を過ぎた。
その海上で、運よく三浦半島の三浦氏の舟艇群に出くわし、相共にいまの東京湾口を東にゆき、房総半島に上陸した。……やがて頼朝は三浦半島にもどって、鎌倉に府を定める。」
ところが、頼朝の時代に栄えた三浦氏も北条氏による執権政治が十分に固まった宝治元年(1247)北条時頼の策謀によって討伐された。その滅ぼされようは徹底しており、所領は没収され、諸国に散らばった余党までも殺された。三浦水軍は壊滅したのである。このことが、のちに新田義貞の稲村ケ崎からの海岸攻撃を許す結果となったのであろう。
さて、昔の由比ケ浜とは『新編相模国風土記稿』によれば、坂之下村霊山崎(稲村ケ崎より鎌倉寄りの崎である)より材木座飯島崎に至るまでの海岸をいったらしい。
この浜は鎌倉時代にいろいろと悲惨な事件があったが、なかでも静御前の悲劇はその最たるものであろう。すでにご存じの方もあろうかと思うが、あらすじを述べておこう。
義経の行方を探索していた鎌倉幕府は、義経の妾・静が吉野山で夫義経に別れて雪路に迷い、下山したところを捕らえて文治2年(1186)3月1日鎌倉に召し下し、種々尋問したが義経の所在はわからなかった。やむなく静をその母機野禅師と共に京都に帰らすこととした。ところが、静はすでに妊娠六カ月の身重であった。そこで幕府はその出産を待ち、もしその子が女児であったならば静に引き取らせ、もし男児であったならば直ちに殺してしまおうということで、彼女らの帰京を遅らせることにした。ところが同年7月29日、静は不幸にして男児を分娩したのである。幕府は安達新三郎に命じてその児を奪い、残酷にも圧殺して由比ケ浜に捨てたという事件である。
さきに述べた渡宋船の建造もこの浜で行われた。

 

 

 

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